マウント富士への信仰
世の大学生はテスト期間である。
先週の土日に静岡県に行く機会があった。
母の実家が静岡にある関係で別に静岡に行くのは何も珍しい事ではないのだが、今回はいつも通りの旅行ではなく大会の選手という立場なのだ。
そこの訪れた水泳競技場のすぐ近くは、あの有名な富士山がデカデカと眺められる最高のシチュエーションが設けられていた。いつもの旅行では残念ながら富士山は見えない場所なので久々に風景で心が躍った。
数年前に夏の富士山を間近で見たときは全然大したことなかったのだが、今回は山頂付近に雪が積もり山肌が美しい富士山だったため思わず写真を撮りたくなるほどだった。
確かに貫禄がある。日本一を名乗るにはふさわしい山なのではないだろうか。
多くの日本人なら「何を写真の風景にしたい?」って聞かれたら富士山って答えるであろう。いま流行りのインスタ映えも簡単に実現する魔法。
そのあまりの美しさゆえに人々を魅了し続けている富士山なのである。そう、デキる奴なのである。自分も富士山になら抱かれてもいい。
冬の富士山を間近で見たのは大会初日の競技場に向かうタクシーの中だった。同乗している仲間もめちゃくちゃ感動していた。
>すごいめっちゃ富士山キレイ
>いや初めてこんなにきれいに見た
>でかいな
などなどさまざま。
タクシーの運ちゃんもそんな感動している自分たちに向けて得意げに富士山について語ってくれた。ただ内容がローカルすぎてほとんどわからなかった。
そんな感動に包まれた初日。正直富士山を見たから帰ってもいいんじゃないかと思った。さわやかのハンバーグとみかん食べれば幸福度が最大になる気がする。
しかし次の日。
競技を終えて帰りのタクシーの中で仲間がこのような言葉を発した。
「もう富士山飽きた」
慣れって怖いと思った。富士山を見た初日の感動はどこ行ったのやら。日本一が聞いて呆れる。
正直な話、実は自分も富士山に飽きていた。考えられる理由はあの大きさにあるのだと思う。
富士山がよく見えるところにいると自然と視界に富士山が入り込んでくる。
自動販売機でジュース買うとき、コンビニ行くとき、散歩するとき、ふと窓の外を見るとき。
これらの行動に共通することは「富士山が見える」 である。
最初のうちはまだいい。奇麗だな壮大だなで済ますことができる。しかしその感情が薄れてきたとき、自分の中では「また富士山」になる。
大きすぎるが故の圧倒的存在感。自分はそれにうんざりしてしまったのかもしれない。不思議なことに帰りのタクシーの中ではもう富士山に抱かれたいとは思わなかった。
さすがに富士山がかわいそうに思えてくる。本人(富士山)はただ山として聳え立っているだけなのに「美しい」「壮大」と勝手に崇められ、さいごは「飽きた」。
ただ魅力的には日本一には変わりはない。これからも多くの人を魅了し続けるであろう。飽きっぽいだけであとはパーフェクト。
一富士二鷹三茄子という言葉もある。根はいい奴なのである。
富士山には腐らずめげないでたくましく生きてほしい。なぜか勝手に親心が芽生えてしまう。疲労困憊の学生が考えるくだらない話である。